2010年11月22日

ニューヨーク・アンダーグラウンド

kgrm_snelysia_m.jpg

 1902年12月25日、クリスマス。重機関都市ニューヨークで一体なにが起きたのか――

 Liarsoftから11月26日に発売されるゲームソフト『紫影のソナーニル』は、廃墟となった旧重機関都市ニューヨークとその地下に広がるアンダーグラウンド・ニューヨークを舞台とした物語です。

 地上の廃墟を探索するエリシアと地下鉄に乗って地下世界を旅するリリィの二人のヒロインが登場するのですが、どちらも素敵なんですよね。
 体験版をまだ触りしか進めていないのですが、エリシアとアランの関係が切なくて心惹かれ、またリリィとAの可愛さに萌え死にそうになったり。とか言いつつも、キュゥキュゥ啼くジョンが愛しすぎて連れて帰りたくなったりします。
 ああ、早く遊びたーい!

 『紫影のソナーニル』発売を前にニューヨーク愛が高まったところで、今回は私たちの愛すべきリアルワールドのニューヨークとあり得たかもしれない別の世界のニューヨークのお話。


  

kgrmsnjohn.gif  繁栄を極め、見上げるばかりの摩天楼が建ち並ぶニューヨーク。

 世界最強の軍隊に護られ、多くの強国からは大海を挟んで遠く隔たった位置にあるアメリカ大陸のこの大都会が、大きな被害を受けたりましてや廃墟になることなんてあるのでしょうか。

 二度の世界大戦でも戦場となることのなかったアメリカ合衆国ですが、やはり冷戦の時期にはソビエト連邦の脅威を真剣に心配した時期もあったようです。

 1948年発行のコリアーマガジンには、核攻撃を受けるニューヨーク中心部を描いたチェスリー・ボンステルのイラストが掲載されています。

chesleybonestell_ab.jpg

 これはひどい。
 大惨事です。

 1949年にソビエトが核実験に成功し脅威が現実のものとなると、ニューヨークの破滅という悪夢がアメリカの人々の心に強く訴えかけるようになってきました。

 こんな風に、



 あるいはこんな、



 はたまたこうして、



 ついには巨大なクレーターができるほどに……



 とまあ、五枚ほど見ただけでも胸いっぱいな気持ちになってしまいますが、一時期はとてもブームになっていたようで次から次へとニューヨークの終末図が描かれたのでした。この終末ブームは1950年代の半ばまで続いたといいます。

 「こえー! 核こえぇえええぇー!!!」ってなったアメリカの人びとは何か対策方法はないものか、身を守るすべはないものかと考えました。

 たとえばこんな風に、



 バリア的なドームで蔽ってみるのも一つの手です。

 なかなかかっこいい。でも、実際作るとなるとハードルが高そうですよね……。


 やろうと思ってできなくもない、現実味のある方法といえば――

 ……そう、やはり地下!

 地下に要塞都市を造ってしまえばいいのです。

 じゃじゃーん!



 こうして考案されたニューヨーク地下大要塞は現実味……よりは浪漫成分が多めに見えますが、かっこよさは抜群です。
 ちなみに、にょきにょき生えている超巨大なつくしみたいなのは空気清浄フィルターつきの換気塔だそう。


「これじゃ暗いなあ……」という場合には、巨大な鏡で底まで照らすというプランもあるよ。




 地下都市かっこいい。胸が熱くなりますね。



 ……でも、ちょっと大げさじゃない? と思う人もいるかもしれません。

 うちの国の首都なんて、何度焼け野原になったことか……と思うと、アメリカの人びとがニューヨークの喪失を怖れる気持ちは根拠の薄い不安に思えてしまう部分もあります。

 なにをそんなに怖がってるのさ。世界最強のくせに……。
 ――そんな呟きが出そうになります。


 恐怖というものは、実際の脅威とはあまり関係なく膨れあがってしまうものなのでしょうか。
 実際、核攻撃が想像された冷戦の時期よりもずっと前にも、ニューヨークの滅亡が描かれています。



 ハドソン・マキシム (1853-1927) 画 「世界オワタ\(^o^)/の図」"How the World Will End", 1910
 ハドソンは、マキシム機関銃を発明したハイラム・マキシムの弟

 ニューヨークに隕石の雨が降り注いでいます。大迫力です。
 描かれている場所はロウアーマンハッタンのシビックセンター。ニューヨークの中心ですね。左端の建物がシティホール(市庁舎)です。

 1910年はハレー彗星が大接近した年で、日本でも明治43年にあたるこの年に彗星の毒ガスで世界が滅亡すると大パニックになりました。そう考えるとあまりひとごとではないですよね。


 考えてみるとこうした不安は国の成り立ちや歴史の流れとは無関係に、繁栄に伴う陰画と言えるものなのでしょう。
 お金持ちや社会的に成功した人ほど、それを喪うことを過度に怖れてしまうものです。


 そう、二十世紀初頭のニューヨークは続々と移民が押し寄せ、次から次へと巨大な摩天楼が建てられる爆発的な成長の途上にありました。

 滅亡の不安は些細なもの。

 富と幸福が溢れ出さんばかりに充ち満ちた夢と希望を具現化するような未来のニューヨークの姿が、絢爛豪華なめくるめく輝きをもって紙面をおおいに賑わせたのです。



 エラスツス・サリスブリ・フィールド (1805-1900) 『アメリカ共和国の歴史的記念碑』, 1876年に描かれた2110年のアメリカ。



 1999年にはこのように巨大な摩天楼が建ち並んでいるだろうと想像されたり、



 1925年発行のポストカードには、巨大なビル群を橋脚にした高架鉄道や賑わう航空機輸送の姿が描かれ、



 同年八月号の月刊ポピュラー・サイエンスには、歩道、複数の車道、地下鉄道と多層構造になった交通網を持った複雑な都市の姿が描かれています。

 では、希望をもって彩られた地下都市計画は、どのように始まったのでしょうか。



 ニューヨークで最初に作られた地下の交通手段は実は、現在のような電動の鉄道車輌ではなく、チューブの中を圧縮空気で押し出すというような変わった構造のものでした。

 この交通機関の考案者の名前はアルフレッド・エリー・ビーチ。当初、地下にロンドンと同様の蒸気機関車を走らせてみようとしたところ排気が悪く失敗。

 当時はまだ電動機が開発されておらず、1866年にロンドンで使われていた気送管を元に思いついたのがこの方式だったといいます。
未来世紀ブラジル  気送管はチューブの中を手紙の入った筒を空気圧で送りだすという装置です。
 今ではまず使われないシステムですが、映画『未来世紀ブラジル』にも出てきたのでご覧になった方なら印象に残っているのではないでしょうか。


 1867年、ビーチはアメリカ協会主催の博覧会でこの交通機関の試作モデルを発表しました。チューブの内径はおよそ直径180cm。軌道の長さは32メートルほどでしたが、17万人以上の試乗者が出るほどの大人気となりました。

 この成功に手応えを感じたビーチは気送会社 Pneumatic Dispatch Company を設立。ワーレン・ストリートからシーダー・ストリートまで、ブロードウェイの地下に秘密裏に実験線を掘削します。

 しかし、この秘密の計画は作業員に変装した記者によってニューヨークヘラルド紙に大々的に暴露され、同紙によって秘密の計画を激しく批判されました。
 その結果、実験線を25セントの入場料を取って公開することになりました。

 車輌は22人乗りでガス灯の照明で明るく照らされていました。また、地下鉄の待合室は大変豪華に作られていたといいます。

 どうやらちゃんとしたもののようだということがわかると、最初は批判的だったニューヨークヘラルド紙の論調は好意的なものとなりました。そして、マンハッタンにビーチ方式の地下鉄の路線を作るよう訴えました。

 これまでなかなか市の支持を得られなかったビーチの地下交通計画に、ついにチャンスがやってきました。

 たびたびの申請却下にめげることなく再度ビーチが市に計画を提案した1873年、新しく市長になったジョン・アダムス・ディクスがついにGOサインを出したのです。

 これでようやく計画が日の目を見る――そのはずでした。


 ところが、ところが――
 いよいよ順調に滑り出すはずだった計画が頓挫したのは、本当に不運だったとしか言い様がありません。

 計画案が通過したわずか数週間後、金融恐慌が始まったのです。

 当然、市民の関心は未来計画よりも当座の生活に寄せられ、ビーチの地下トンネルは封印されたのでした。
 彼は後にニューヨークの地下に鉄道が走ることになるその姿を見ることなく、1896年に亡くなりました。


 ニューヨーク最初の地下鉄路線が営業を開始したのは1904年のこと。ビーチにあと少しの運があれば、歴史はまたちがったかたちになっていたかもしれません。


 最初の路線はハドソン・マキシムが描いた世界の終末、シティホールのちょうどその地下、マンハッタンのシティホール駅とブロンクスの145丁目との間を結んで開業しました。

 シティホールの地下鉄駅はスペインの建築家ラファエル・ガスタビーノが手がけたもので、タイル装飾とガラスの天蓋が見事な大変美しい駅です。

 地下の空間は暗く、閉塞感を感じがちです。最初に地下鉄を利用する人びとの抵抗感を和らげるためか、玄関となるこの駅では特に、少しでも華やかに開放感を感じられるようにと工夫が凝らされたのでしょう。

 アーチにタイル装飾を施した意匠はガスタビーノ・タイルと呼ばれ、ニューヨークの各所で見ることができます。他にはグランドセントラル駅の地下にあるレストラン、オイスターバーの天井が有名でしょうか。

 シティホール駅は1945年に閉鎖されて以来地下鉄駅としては使用されていませんが年に数回一般開放されているとのことなので、ニューヨークを訪れる機会があれば見てみたい場所の一つです。


  

 さて。アメリカで列車といえば、思い浮かぶのはこの曲です。



 1939年にジャズバンド、デューク・エリントン楽団のピアニスト、ビリー・ストレイホーンが1939年に作曲した名曲、『A列車で行こう』。
A列車で行こう  エラ・フィッツジェラルドとの競演も名高く、大ヒットしたこの曲はジャズのスタンダード・ナンバーとなっています。

 実は、私が最初に知った『A列車で行こう』はアートディンクのゲームソフトのタイトルでした。
 そのため、「A列車」というのは大陸の交通の動脈となるような鉄道、荒野を駆け抜ける大型の列車、というイメージを勝手に持ってしまっていました。

 ジャズの『A列車で行こう』で歌われている「A列車」がニューヨーク地下鉄のA路線のことだと知ったのは歌詞をちゃんと意識した後のことでした。

Take the 'A' Train - Billy Strayhorn

You must take the "A" train
To go to Sugar Hill way up in Harlem
If you miss the "A" train
You'll find you missed the quickest way to Harlem

Hurry, get on, now it's coming
Listen to those rails a-thrumming
All aboard, get on the "A" train
Soon you will be on Sugar Hill in Harlem


『A列車で行こう』

A列車に乗らなくちゃ
シュガーヒルに行くならハーレム行きだよ
A列車を逃したら
近道なんてないんだ ハーレム行きのはさ

急いで! 乗りな! ほら来たよ
レイルが弾む音が聞こえるだろう?
発車オーライ A列車、出発進行
ハーレム、シュガーヒルはもうじきだ

 ハーレムは黒人街として有名ですよね。

 シュガーヒルというのはその黒人街のちょっと高台になった場所で、元は1800年代後期に白人の中産階級や上流階級のために開発された住宅街だったそうです。
 1920年代頃から社会的に成功した黒人たちが住むようになり、「成功の甘い丘」として黒人たちの憧れの地となっていました。

 (ハーレムで)音楽で成功を収め、富と名声を手に入れよう。日の当たらない地下からまばゆい丘へたどり着こう、と下層の人びとの夢と希望を歌っているのです。

 かつてビーチの夢が埋められたその場所から、希望を夢見る歌が紡がれました。

 地の底を這う旅路は、いつかは希望へと辿り着いて欲しい――と。


 ご紹介した、かつて描かれた数々の未来のニューヨークの姿に見られる希望と絶望。みなさんの心に残ったのはどの一枚だったでしょうか。



 車掌「A」の列車に乗って旅立つ11月26日を楽しみにしつつ――




紫影のソナーニル -What a beautiful memories- ラヴクラフト全集〈6〉 (創元推理文庫) 参考:
Wikipedia 英語版 - City Hall (IRT Lexington Avenue Line)
Wikipedia 英語版 - Beach Pneumatic Transit
Wikipedia 英語版 - Collier's Weekly
New York City's First Subway
New York City Subway (NY) (Postcard History) The New York City Subway and the creation of the IRT
Wikipedia - ジョン・アダムズ・ディクス
Wikipedia 英語版 - Guastavino tile
google書籍:popular science monthly 1925年8月号41ページ


kgrm_snelysia_m.jpg
posted by Koh Takano at 04:11 | TrackBack(0) | 奇想旅行記
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/41805320
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック